スペイン料理で世界に最も知られているのは、パエリアでしょう。でもスペイン人は毎日、米料理を食べるわけではありません。パエリアは元々、週末に海や山で、あるいはお祭りの日に、昼食にワイワイ食べるものです。米の生産量は、世界12位前後の日本の10分の1以下で40位くらい、30位あたりのイタリアの約半分です。スペインの主食はパンなのです。
今も昔も、スペイン人のお弁当と言えば、ボカディジョです。スペインのバゲットやpan de barraという長めのパンを上下半分に切って具をはさみます。定番は生ハム、羊乳のチーズのスライス、その両方、あるいは、じゃがいものオムレツのトルティジャです。トルティジャの上にグリルしたピーマンが入ることもあります。遠足のお昼は、ほぼ全員がアルミホイルに包んで親が持たせてくれるボカディジョです。
中には板チョコが丸ごと挟んである子もいて知らないとびっくりしますが、バターとチョコレートとバリっとしたパンはすばらしい組み合わせです。ソーセージのスライスのボカディジョもあります。あらゆるジャンルのお弁当がある日本と比べると、シンプルですが、スペイン人は飽きないようです。
バルではテイクアウトもできます。30年ほど前、ボカディジョ専門チェーンの店舗が沢山でき、豊富なバリエーションが人気でしたが、バルのボカディジョがすたれる事はありません。
もう一つの、人気のパンの食べ方が、パン・コン・トマテです。 カンパーニュパンなどをスライスし、網やグリルで焦げ目がつくほどしっかり焼いて、半分に切ったにんにくの風味をつけます。熟した中玉トマトを横半分に切り、パンにこすり付けてジュースをしみ込ませます。E.V.オリーブオイルをたっぷりかけ、塩をふります。カタルーニャ地方で良く食べますが(カタラン語で「パントゥマカ」)、スペイン中で人気です。
生ハム、チーズ、仔羊肉のグリル、小魚とホタルイカのフリット、米料理、何にでも良く合います。レストランやバルで、完成したものがでてくることもあれば、自分で作るように、グリルしたパンと材料が別々に出てくることもあります。初めてなら、まずお手本を見せてもらって、手作りのプロセスも楽しみましょう。
パン・コン・トマテは朝食にもあり、特に南のアンダルシアとムルシア地方では、トーストしたパンの上に、すりおろしたトマトをスプーンですくってのせ、やや控えめにオリーブオイルと塩をふります。伝統的なやわらかくふかふかしたパンのモレテも好まれます。ホテルの朝食ビュッフェにも用意されていて、暑い夏の朝にもトマトの酸味が食欲をそそります。
スペインの名物パンに、マジョルカ島のエンサイマーダ(Ensaimada)というもあります。棒状になった生地をぐるぐる渦巻き状にして、オーブンで焼き上げ、ふわふわとした生地に白い粉砂糖が美しくかかっていて、生地にはたっぷりとラードを使っています。
起源説はいろいろですが、イスラム、ユダヤ、キリスト教の文化の融合がその由来と思われます。アラブのお菓子で使われていた羊乳バターとオリーブオイルは、キリスト教徒の手においてラードにとって代わりました。1492年にアラブ王国が消滅した時、イベリア半島にとどまるためには、キリスト教に改宗をするより他なかったアラブ人や、ユダヤ教徒に、食することが禁じられていた豚の脂を使ったエンサイマーダを、踏み絵のように食べさせたという逸話もあります。
スペイン家庭での肉消費量の内、豚肉は生肉では鶏肉についで2番目ですが、生ハムやソーセージの加工肉の80%は豚肉で、全体では豚肉が約40%、鶏肉の30%を上回ります。外食もあるので、豚肉の消費はかなりの量で、豊富なラードが使われてきました。
プレーンのエンサイマーダの他、カベジョ・デ・アンヘル(Cabello de ángel、天使の髪、そうめんかぼちゃの甘煮)、生クリーム、カスタード、チョコレート入りの甘いタイプ、アプリコット入り、ソブラサダ (Sobrasada)という、マジョルカ特産でパプリカ入りのしっとりしたソーセージの塩味のものもあります。直径8cmくらいのもの、直径14cmくらいのものから、直径30㎝くらいの切り分けるものまであります。
エンサイマーダは、2004年にIGP (Indicación Geográfica Protegida、地理的表示保護)に、菓子パンの部類で登録されています。EUが規定した地理的由来の品質・評価・特性があり、生産工程の一部が、一定の地理的領域で行われている、農産物を保護する制度です。
登録対象は、プレーンとカベジョ・デ・アンヘルの2つのみで、詳細な形状の表現があり楽しめます。
エンサイマーダ・デ・マジョルカ : 詰め物なし、重さは60gから 2kg。
エンサイマーダ・マジョルキナ : エンサイマーダ・デ・マジョルカと同じ生地に、エンジェルヘア (そうめんカボチャの果肉を砂糖と煮たもの) が入ったもの。重さは 100gから3kg。
形状はどちらも時計回りに2回転以上の渦巻きであり、表面は波状、金色、しっかりとぱりぱりで、つぶれやすいです。内部は柔らかく、しっかり凝集性が高く、弾力性はとぼしいため、内部のパイ生地がしっかり確認できます。焼きたての生地には甘い風味と香りがあり、底はしっとり滑らかで、どちらも、粉砂糖を振って白くしても良いです。生産の地理的領域は、バレアレス諸島に属するマヨルカ島のすべての自治体が含まれます。
スペインの美食家で、30年以上、スペインで最も広く読まれている新聞 El País の食のジャーナリストで、Instagramに10万人のフォロワーを持つ、ホセ・カルロス・カペルさんは、スペインにはおよそ315 種類のパンがあると見積もっています。
北欧、ドイツ、オーストリアのように、冷涼な国では茶色いパンが多く、ピレネー山脈北側のフランスでは、全粒粉、ライ麦粉、他の穀物もよく混ぜられます。
質の良い小麦が栽培できる南欧では、軟らかく軽い食感の白いパンが好まれましたが、栄養価は下がります。
スペインではずっと、特にフランコ政権の間、ライ麦、大麦、ソバ、全粒小麦のパンは「貧しい人々の食べ物」と見なされていました。スペイン固有で、普通小麦の最古の原種の、白を意味するCandealと言うデュラム小麦は、栄養価が高く、その小麦粉で作るパンの品質が、国内最高評価の小麦です。これらのことから、かつて、レストランやバルで出てきたのは、外皮はなめらかに乾いていて、中は白く柔らかで目の詰まった、素朴で混じりけのない味わいのパンがほとんどでした。健康的な食事への関心が高まると、全粒粉パンも作られるようになりました。
20年ほど前から、パン屋の仕事が機械化され、伝統的な作業が簡素化されていきました。自然の材料のみで職人が手作りするパンは、人工添加物を使用したパンより味も香りもはるかに強烈で、数日経っても柔らかく美味しかったのですが、そういうパンはなかなか食べられなくなり、スペインのパンの消費量は大きく減少しました。先述のCandealデュラム小麦は、収量が低く収益性が悪いため、高品質にもかかわらず姿を消しつつあります。
近年、そうした状況に危機感をいだく生産者の間で、地中海の伝統的なパン文化を立て直そうとする動きが顕著です。オリーブオイルやワインに大きく後れを取っている、IGP(地理的表示保護)保護地理的表示の登録をする地方が出てきて、現在6つあります。Pan de Cea (2005、ガリシア)、Pan de Cruz de Ciudad Real (2009、カスティーリャ・ラ・マンチャ)、Pan de Pagès Català(2013、カタルーニャ)、Pan de Alfacar(2013、アンダルシア)、Pan Gallego (2019、ガリシア)、Mollete de Antequera (2020、アンダルシア)です。
消費者は、サワードウ、薪のオーブンで、じっくり焼いたパンへの回帰と、無添加、オーガニックや亜麻のようなヘルシーなものを求めるようになっています。
もう一つのトレンドは、おしゃれなパン屋さんが増えていることです。パリに引けを取らないクロワッサンを作るパン職人が次々に誕生して、2008年には、スペインのベストクロワッサンのコンクールができました。バルセロナ市がスペインのシグネチャーベーカリーの新しい波の中心と目されています。
パン事情の変化が大きいスペインを訪れる際は、パン屋さん巡りをして見てはいかがですか? 日本では、ぜひスペイン料理店のメニューにパン・コン・トマテがあれば注文したり、スペインの生ハムやチーズのボカディジョを作って、ピクニックを楽しんでください!